top of page

審判の苦悩

2024年8月2日

直前にテレビを買い替え、見る側も準備万端で迎えたパリ・オリンピック。連日の日本選手の活躍に一喜一憂しつつ、眠さも最高潮であります。


選手の数年にわたる努力は我々凡人には到底想像も出来ないのですが、特に柔道に関して日本選手の「礼」や「相手に対する敬意」は、柔道がスポーツであると同時に「道」であることを知らされ、日本の国技であることに誇りを感じたりします。負けても「勝負に行った」結果の敗戦であれば、応援する方もずっとその試合を記憶に留めているはずです。

その中でいつものことではあるのですが、「判定」について釈然としないものがあります。


どのスポーツの審判もそうですが、瞬時に肉眼で見た結果の判定を下さなければいけないので、難しいとは思います。しかし最近ではビデオ判定も導入され、以前よりも判定に正確性が増してきている一方で、公平性について疑問が残る判定も見られます。特に柔道に関しては、ビデオ判定をするか否かの判断は審判団に委ねられ、選手側には要求する権利もありません。「指導」に関しては個々の審判にブレがあり、それでメダルが転がり込んできたり、逃がしたりもします。そこで思うのは、判定する側も命を懸けているのか、ということです。選手は血を吐くような努力をしてきているはずです。審判は正しい判定のために、命を懸けて努力してきているのでしょうか。どうにもそうでない気がします。権威や権力を笠に着ていないでしょうか。


世界最高峰の試合を捌くのであれば、審判も世界最高峰であって欲しい。そのために「審判五輪」や「レフリーワールドカップ」など行うべきではないでしょうか。正しい判定をしたかどうかの祭典です。我々のような一般市民には、その審判がどのような経緯でそこにいるのか分かりません。「審判五輪」や「レフリーワールドカップ」の成績上位の者が、最高の舞台であるオリンピックの審判となるべきではないでしょうか。


人間が試合をし、人間が判定を下すことにスポーツの高貴さがある気がします。しかしその限界を超えた部分を補うのにビデオを用いることに躊躇いがあってはいけません。ロスオリンピックでは柔道もビデオ判定を選手側が要求出来るようになっていることを切に願いします。

頑張れ全ての国の選手!の気持ちで今夜も応援しましょう。

bottom of page